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最高裁判所第一小法廷 昭和46年(あ)1136号 判決 1972年2月10日

主文

原判決および第一審判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

弁護人武子暠文、同鈴木紀男、同矢田部理、被告人本人連名の上告趣意は、事実誤認の主張であつて、適法な上告理由にあたらない。

しかし、所論にかんがみ職権をもつて調査するに、本件の公訴事実は、「被告人は、勝田市役所民生部福祉事務所に福祉係として勤務するかたわら自治労勝田市職員組合の執行委員をしているものであるが、昭和四一年一〇月二〇日午前七時三〇分ころ勝田市中央町一四番九号勝田市公民館において、同公民館一号室東側入口向つて左側の壁に同市市長が貼付した同月一九日付の同市職員にあてた『職員の争議行為の防止について』と題するいわゆる一〇・二一ストに関する警告書一通をとりはがして持ち去り、もつて公務所の用に供する文書を毀棄したものである。」というものであり、第一審判決は右公訴事実と同趣旨の事実(ただし、右警告書を警告文と表現)を認定したうえ、右は刑法二五八条の公文書毀棄罪にあたるものとして、被告人を懲役四月執行猶予一年に処する旨を言い渡し、原判決は、被告人の控訴に対し、その事実誤認の控訴趣意を排斥して右第一審判決を是認維持しているのである。

しかし本件記録を精査するに、右公訴事実を肯認しうる証拠としては、被告人が右警告文をはぎ取るところを目撃したという証人湯沢鉄之介の証言だけであるが、被告人は捜査の当初以来一貫して右犯行を否認し、自分は前記警告文をはがしたことはない旨供述している。そして、証人船橋静、同川島良二、同大内弘隆、同川崎不二男等は、本件警告文は、被告人がはがしたとされている日の前夜である一〇月一九日午後八時ごろには何者かによつてはがされ、所論の壁には貼付されていなかつたと述べ、なお右証人川崎は当夜そのことを安光江にも話したと供述しており、証人安光江もこれに照応する供述をしているのであつて、事の真相がそのいずれかであるかは容易に即断しがたいものであるところ、当裁判所に提出された検察官の昭和四六年一〇月二三日付「答弁の補充書」と題する書面によれば、勝田市役所の職員で小池正美という者が本件事件の前夜である昭和四一年一〇月一九日夜本件勝田市長名義の警告文をはがし取つて破棄した嫌疑があるが、諸般の情状により右小池については起訴猶予処分に付した旨の記載があるので、前示証人湯沢の証言はたやすくこれを措信することができないものといわなければならない。

してみれば、右証人湯沢の証言を措信し、被告人に対し前示公訴事実の存在を肯定し有罪の言渡をした第一審判決およびこれを維持是認した原判決には、判決に影響を及ぼすべき重大な事実誤認の疑いがあるから、これを破棄しなければいちじるしく正義に反するものと認める。

よつて、刑訴法四一一条三号により原判決および第一審判決を破棄し、同法四一三条但書によつて更に被告事件につき裁判すべきこところ、記録に徴するに、証人湯沢鉄之介の前示証言は、前示のようにたやすく措信できないものであるし、これを除いて他に本件公訴事実を認めるに足る証拠は存しないので、同法四一四条、四〇四条、三三六条に従い、被告人に対しては犯罪の証明がないものとして無罪の言渡をすることとし、裁判官全員一致の意見によりり主文のとおり判決する。(岩田誠 大隅健一郎 藤林益三 下田武三 岸盛一)

弁護人・被告人の上告趣旨

一、原判決は一審判決のあやまりを再び繰り返し控訴を棄却し被告人を有罪としているものであるが、判決理由は全く承服し難いものである。本件警告文を剥がした者は被告人ではなくして、他に存在することは次項に述べるとおりであるが、原判決は依然として本件における唯一の目撃証人とされる湯沢鉄之介証言を無批判に措信した重大な事実誤認を犯しているので、先ずこの点から指摘することとする。

(1) 先ず原判決は、一審の判示犯罪事実は、「原判決が掲げる各証拠を綜合して、これを肯認することができ、記録を精査し且つ、当審における事実取調の結果に徴しても、原判決には判決に影響を及ぼすことの明らかな所論のごとき事実誤認は存在しないと認められる。」とし、その一審判示が正当である理由をるる述べているが、結局のところ、その云わんとする重点は、要するに湯沢証言は信用にあたいし、その湯沢が、被告人が犯行を行つたと証言している以上、これに反する主張はすべて理由がない、と云うにあると思われる。

しかし我々として不可解なことは、原判決自体湯沢証言に対して前後の不一貫を認めながら、証言の大綱と要点においては、前後に矛盾があつたり、又は不合理があるということはない、としている点である。

(2) 湯沢証言が極めて不正確であること自体勿論問題であるが、それ以上に本件湯沢証言における最大の問題点として無視し得ないのは、湯沢の幾多の変転を繰り返す証言の単なる記憶不明瞭というのではない、まさに証言態度中における誠実性の完全欠如を伴う虚言性癖傾向の顕著な実例の存在である。証人たるもの記憶において多少の矇昧性は当然随伴するのはある程度避け難く、証言中に若干の不明瞭が残ることはあると考えられるが、そのようなことを考慮に入れて考えても、湯沢証言はどうしても是認し得る限界をはるかに越えるものなのである。

湯沢証言において問題なのは、全く自らの経験認識していない事項を、あたかも自ら明瞭かつ正確に体験認識しているかの如く平気で証書し、後程その間違いが確定しても、てんとして恥じない不誠実極まる証言態度そのものにあるのである。

(3) 原判決は、「同証人は、本件前夜同人が原判示公民館へ自宅から戻つた時間、宴会を終えて帰つた職員の氏名、人数、さらに同人が戸締りをした時間等について前後一貫しない証言をしているが、同人の年齢、市公民館の管理人(正確な意味で管理人といい得るか否かは疑問で多分に留守番的な役目を含む)となつたのは本件直前の昭和四一年九月一四日であつて、いまだ職員の氏名や顔を十分知るに至つていないと思われること等に徴すれば、これらの点についての同証人の記憶は必ずしも正確を期し得ないものがあつても不思議ではない。従つて、これらの点につき多少のそごがあつても、そのため同証言の証言全体を措信できないものと評価すべきではない。」と云うが、これらの点は単に記憶が不正確だつたというだけでなく、一旦はあたかも自分の記憶として全く不明瞭な点がなく、絶対の真実であるかの如く自信満々の証言をしながら、後になつて都合が悪くなると頑強に抵抗した末、止むなく証言を変更しているから問題なのである。証人が証言する場合、記憶不正確な事項についてはおのずから証言のし方はあるのであつて、湯沢の如く、一旦は堂々と断言しながら、あたかも当然であるかの如く変更するが如きは常人のなし得るべきところではない。湯沢はことさら虚言をかまえていると云わざるを得ないのである。

(4) また原判決は湯沢証言中の「犯行目撃状況についての証言部分について考察すると、本件警告文の大きさ、貼付位置、セロテープでどのように貼付されていたか、また所論指摘のスト宜言の貼付位置等、について同証人は必ずしも的確な証言をしていないのであるが、それは、同人の観察、認識、記憶、表現が細かい点について正確でないためであると理解するのが相当で、同人がことさら虚言をかまえているためであるとするべきではない。」などと述べているが、「警告文の大きさ、貼付位置、セロテープでどのように貼付されていたか、また所論指摘のスト宣言の貼付位置等」につき証言が的確でないということは、仮りにことさら虚言をかまえていたものではないにしても、これらの点に関する観察認識そのものが、湯沢にははじめからそもそも存在していなかつたと見るべき相当な理由である筈である。

(5) 更に原判決は、警告文は剥ぎとり行為そのものに関する部分に関しては、「右湯沢証言にいう如くに、壁に貼付されている原判示警告文の上部に両手をかけて、これを一気に剥がす際には、紙片や貼付に使用したセロテープを壁面に残さないわけにはいかないものと考えられる。そして、湯沢証人は原審および当審を通じて、被告人が貼付されていた原判示警告文の上方に手をかけて素早く、バリッと音をさせて剥ぎとつたのを、斜め後方から目撃していた旨証言している。しかし、何人も一瞬の出来事を観察し、これを正確に記憶にとどめ、後日記憶どおりに且つ適切に表現することは難かしい。湯沢証人も、被告人が原判示警告文を剥ぎとつた手段、方法の細部についてまですべて適切な証言をしているものとはいえないし、また、当審における前示証人湯沢、安、西野らは被告人が原判示警告文を剥ぎとつたあとに紙片やセロテープ片が残存していたかどうかについては記憶していない旨それぞれ証言しているのである。また、所論指摘のスト宣言と警告文の各貼付の位置や洗面台の位置関係等に徴すれば、湯沢証人は被告人がスト宣言を貼付してから横に移動して原判示警告文の前に立つた動作についても、必ずしも正確に観察し記憶に止めていたともいえないであろう。

しかしながら、それら些末の矛盾とか不正確な部分があるからといつて湯沢証人の被告人が原判示警告文を剥ぎとつた旨の肝腎な証言の部分までを虚偽であるとみることはできない。とし、一審判決の事実認定は、「要するに被告人が警告文を引き剥したという点については証拠上誤りがない」と強弁しているのである。

しかしながら、この原判決引用部分がまさに事実に関する証言としては肝腎な部分であつて、行為の具体的態様に関する証言を空白にして「被告人が警告文を剥ぎとつた」と認定するのは無暴も極まれりというべき以外の何ものでもない。

「被告人が原判示警告文を剥ぎとつた」ということは、いわば一般的な行為についての総括的な結論に過ぎないのであつて、被告人が剥ぎとつた」と云い得るためには、被告人によつていかなる態様のもとに為されたか、明らかにされなければならない。湯沢証言によつて認定しうる被告人の行為態様や紙の残存状況は全くあり得べからざることであつて、要するに湯沢証言による以上、具体的行為の肝腎の部分については全く空白な証言が残るのみである。原判決は湯沢証言につき「部分的には記憶も薄らぎ、不正確ないし不適切な表現がない訳ではないが、これを全体的に評価するとき、大綱において終始一貫しているものと認められ」などと云うが、原判決のいう大綱とは一体何を指すのであるか。虚偽に満ち変転を繰り返す湯沢証言において一貫しているのは「被告人が警告文を剥がした」という、いわば具体的内容を全く欠如した抽象的結論部分のみにすぎないのであつて、剥ぎとり行為に内容としての具体的行為を盛り込もうとする湯沢証言は支離滅裂となつてしまうのである。本裁判に現れた湯沢による「被告人の犯行を目撃した」ということは、湯沢において「経験事実についての叙述」といい得るかどうか全く疑問であつて、むしろ具体的な裏付けを全く欠く「被告人の犯行を目撃した」という湯沢の意見ないし主張の開陳に過ぎないというべきである。

(6) 原判決は我々の訴訟進行によつては「肝腎の証言部分の信憑性を失わしめることに成功していない」ときめつけているが、湯沢の本事件における肝腎な証言部分は前述のとおり正に具体的内容を全く欠く抽象的結論部分の意見表明にすぎないものであるが故に、このようなものは性質上からも法廷における事実関係の領域における攻防によつては、くつがえすことは本来不可能というべきであつて、原判決はいわば悪魔の証明に類似することを我々に強いる以外の何者でもないのである。

(7) 以上要するに、一審判決及び原判決は、冷静な判断者であるならば当然着目すべき湯沢証言の欺瞞性には敢て目をとざし、ひたすら湯沢証言にのみ不当過大の信を措くあやまちを犯した結果、真実を見通すことが出来ず。湯沢証言が真実なりとの固定観念から脱し得なかつたものであつて、原判決の事実誤認は明白であると云わねばならない。

二、原審判決は重大な事実を誤認しており廃棄されるべきものである。

本件事案において、被告人を有罪に認定し得る唯一の証拠は湯沢の虚偽の証言しかないといつてもよい。この証認の「昭和四一年一〇月二〇日午前八時頃までは、公民館廊下の壁に警告文が貼付されていた」旨の証言が正しいか否かにかかつている。しかし乍ら真実は、警告文は前日の一九日の午後八時頃にはなくなつているのである。

第一審判決はこの重大なる事実にたいし、湯沢が証言しているとおり二〇日の朝まで警告文は貼付されていたとの事実に反することを、湯沢の証言を鵜呑にして認定した。これは重大な事実誤認である。そこで以下このことについて述べたい。

弁護人は本件の第一審公判廷の冒頭陳述で詳しく述べているとおり、警告書は一九日になくなつていた事実につき、「一九日は夕方五時半頃から職員組合主催のソフトボール大会の残念会が公民館の管理人室で職員約一三名が参加して開かれ、午後八時一寸過ぎに散会したのである。そして右残念会に参加した船橋静、三島良二、大内弘隆らは、帰途タイムレコーダーに打刻するに際し、その上に貼付してあつた警告文がなくなつているのを発見し、夫々その旨を話し乍ら退去したものである」と述べている。そしてこれらの事実は、前記船橋らの第一審々判における証言で優に認められるところであるが、原審も第一審判決と同様これら証人の証言を信用できないとしている。殊に原審では、これらの証人の証言はいずれも湯沢に対し被告人を犯人に仕立てたといつて、何度も問詰して正反対の立場にあつた者の供述であるから信用できないと云つている。

原審のこのような思考方法で船橋らの証言を信用しないと判断するのは全く間違いである。これら証人は一九日すでにない警告書を翌日まであつたと主張している湯沢の主張が間違いであり、為にするものであるから問詰したまでである。若しこのような思考がゆるされれば正反対の証言中どちらの証言が正しいのか判断するのに、証言内容について何らの合理性を追求することなしに判断することが許されることになり、唯正反対の立場であるとのことで、一方が措信され他方が措信されなくてもよいということになる。この点に関する船橋らの証言は総てが一致し、且つ何らの矛盾や不合理もない。しかし一方、湯沢の証言はどうかというと、この証言はいたるところで前後が矛盾し、不合理、不適切な証言をしている。

原審判決も

(1) 湯沢証人が公民館へ自宅から戻つた時間、宴会を終えて帰つた職員の氏名、人数、さらに同人が戸締した時間等について前後一貫してない証言をしていること。

(2) 本件警告文の大きさ、貼付位置、セロテープでどのように貼付されていたのか、また所論指摘のスト宣言の貼付位置等について湯沢証言は必ずしも的確な証言をしていないこと。

(3) 壁に貼付されている原判示警告文の上部に(湯沢が)両手をかけて、これを一気に剥がす際には、残片や貼付に使用したセロテープを壁面に残さない訳にはいかないものと考えられること。

などについて夫々大きな疑問をなげかけている。

しかし結局原審はこれらの疑問点を「些末の矛盾や不正確な部分」とかその問題にすり替えて物理的な不可能な証言(前記(3)の部分)を肯定したり、さらに説明に窮すると「それは同人の観察、認識、記憶、表現が細かい点について正確でないと理解すべきであるとか、又は湯沢の経歴、年齢、当時の地位に徴しても部分的には記憶も薄らぎ、不正確ないしは不適切な表現部分があつても」よいと述べて、まじめに検討せず問題をはぐらかしたりしている。さらに全く説明できない次の事実に対しては、「真に被告人が原判示警告文を剥ぎとるのを目撃したというならば、公民館の管理人で(盗難防止等の責務のある)同人は当然被告人の所為について警告ないし制止する義務があるのにそれをしなかつたのは「瞬時の出来事であり、同人の知識からみて、剥がしてよいか悪いかは咄嗟に判断できなかつたからである」と述べ、裁判所の被告人に対する誘導訊問による答えをそのまま引用している。つまり極言すれば原審裁判所は、弁護人の湯沢の証言の矛盾を指摘したり、又それが経験的に反したことを明にしたことにつき、まともに検討せず、些末とかでごまかし、又湯沢の証言内容より、同人の年齢とか経歴など証言と直接関係ないことも持ち出したりして、もつともらしいことを述べたり、最後は裁判所が湯沢に代つて証言したようなことを述べて一審判決を維持しているのである。

抑々刑事事件における裁判の基本的原則として、「疑しきは之を罰せず」との法諺があるとおり、有罪を認定するには、その裏付けをなす証拠に絶対的な信頼度を持つことが必要で、単に疑しでは有罪にすることはできない。唯一の証人である湯沢の証言が前記指摘の如きであり、とても信用し得ないのをわざわざ裁判所がこれに対し抽象的な文言で信用できると述べることは許されない。

本件事案における湯沢証言に対し、裁判所はけんきよに検討すべきであつた。

最近青森における医師の妻に対する殺人事件の判決が全くの誤判であつたことが明かになつた。又裁判所が屡々組合などの事件で証人相互の証言が矛盾しているときは、多集の行動中の証言だから矛盾してもおかしくないと云い乍ら、他方矛盾がなければないでそのことを理由とし信用できるということ、つまりいずれの場合でも用語の単なる使い分でどのようにもなることを理由として有罪判決をすることは厳に慎しむべきものである。弁護人らが既に述べた通り、原審判決を検討すれば裁判官に湯沢証言は真実であるとの予断を持ち、疑しきはこれを罰するとの考え方で一貫しているやに思われてはならないのは弁護人のひがみではないと考える。

三、警告文が一九日夜なくなつていたことの真相と、湯沢の嘘の証言が全く明かになることについて

弁護人並びに被告人は刑事事件において、公訴事実を争うことは、事案を否認して検察官側の不当性を追求することであり、真犯人を探さなければ有罪をまぬがれぬと云うものではない。そこで弁護人と被告人は本件において当初より湯沢らの検察側の証言の信用できない旨を、したがつて被告人は無罪であることを主張してきたものであるが、結局、第一審、原審共前記のとおり弁護人らの主張を一方的に排斥してしまつた。

そこで、本件の真相(そしてこのことは起訴当時から解つていたものであるが)を以下に明らかにして、弁護人の主張が正しかつたことを述べたい。

弁護人はこの点について、本件が上告審である関係上、事件当時の関係者の陳述書を本趣意書に挿入し、それをそのまま趣意書として裁判官に検討してもらつた方が最も適切な方法と考える。

そこで、以下、逐次陳述書を引用することにする。

陳述書

私は昭和三十七年四月一日付で勝田市役所都市計画課に勤務、同時に勝田市役所職員組合に加入しました。

その後、昭和四十一年四月移動で教育委員会に配属され現在も教育委員会に勤務しております。

当時事件のあつた前の晩昭和四十一年十月十九日に職員組合主催の各課対抗ソフトボール大会が開催され、私も教育委員会議会事務局との混成チームの一員として参加しました。惜しくも敗戦しましたので、私と飛田さんで幹事を引受け、公民館管理人室で残念会を開きました。参加者は教育委員会安(前教育長)、川島、市毛、川野、飛田、中島、高瀬、沢畑、助川と私し、議会事務局渡辺、大内、安光江等でした。

飲物はビール二ダース、ジュース十本位いだつたと思います。料理は女性の手料理と雑菓子等でした。残念会が始まつてから主にソフトボール大会の反省等で話がはずみ楽しくすごしました。

七時半頃までに安(前教育長)、川野、助川、中島、高瀬、沢畑、浅辺、安光江等が時間の関係で帰りました。

その他の者(市毛、川島、飛田、大内、小池と私)で残つたビールを飲み八時頃帰ることにしました。皆んなでだいたいの後片ずけをして残を飛田さんにお願いして管理人室を出ましたが、管理人の湯沢さんの姿は見かけませんでした。

私は管理人室を出てから事務室に入りタイムカードを取つて一号室にむかつて東側にあるタイムコーダの前に来ましたが二〜三人前にいましたので打刻するのを後でまつていた。その時小池君が何んだこれは……といつて警告書を上から破いた。その直後川崎さんが後から何やら喋りながら警告書の紙はしのついているセロテープを二〜三ケ所取るのを記憶しております。この時始めて川崎さんの顔を見ました。

私はこの出来事の後にタイムカードに打刻し、皆んなと話しながら玄関の方に歩きだしました。歩きながら川崎さんがお茶飲に行こうと皆んなを誘つたが私は汽車の都合で先に帰りました。

昭和四十六年六月三十日

水戸市柵町六丁目五番地

船橋静

最高裁判所御中

陳述書

私は、昭和三十六年六月に勝田市役所へ入所し、税務課に勤務、その後、昭和四十年六月に議会事務局、昭和四十三年一月福祉事務所へ異動し現在に至つております。

市役所へ入所した当時は、給料も非常に低く勤務条件も極めて悪かつたため、組合に関心をもちはじめ、いろいろの経験をする中で組合運動をするようになりました。この期間市職の執行委員、青婦部役員をし、現在は青年部書記長をしております。

この事件がおきた当時の職場の状態は、自治労で始めて全国的に統一スト(十月二十一日)をかまえる中で、職場討議がされ、多くの要求を市長に提出しましたが、それに対して市長はぜんぜん交渉に応じようともせずに逃げあるいていました。そして一方的に警告文を出してストはやめろという態度に、私たちは非常な怒りを感じておりました。

こういう中で、昭和四十一年十月十九日の晩、五時半から私の職場のあつた中央公民館の管理人室で、各課対抗ソフトボール大会で教育委員会、議会事務局の混成チームが敗れたため、その残念会が開かれました。出席したのは安教育長、河野課長、川島、助川、飛田、小池、市毛、船橋、渡辺、安(光)さんたちと私で、ビールとジュースをとりよせ、女の人たちが料理を準備しました。残念会では主にソフトボール大会での出来事が話題になり、とてもにぎやかにほとんどのビールを飲んでしまいました。

午後六時半ごろから七時半ごろまでに教育長や女の人たちは帰り、最後まで残つたのは川島、市毛、小池、飛田、船橋さんと私で六人だつたと思います。それぞれ後片ずけをしこまかいのを飛田さんにまかせて、みんなで廊下に出てきましたが少し酔つてふらついていたと思います。その時ちようど川崎さんが執行委員会から帰つてきたので「もう残念会は終つちやつたよ」ということで、みんな教育委員会からカードをとつて、タイムコーダーの前に行きました。その時、小池君が酔つぱらつたいきおいで「何だこんなの」ということでタイムコーダーの上にはつてあつた警告文を破つたわけです。そのあと川崎さんが「どうせ破くならきれいにしちやえ」ということであとに残つた二・三ケ所のセロテープをはがしました。それからみんなでカードをおして公民館を出ました。少し酔つていたのでお茶でも飲んでさましていこうということになり川島、市毛、小池さんと私で「茜」へ入りました。

川崎さんは勝田駅に用事があるから寄つていくからということでした。船橋さんは汽車の時間に間にあわないので早く帰りました。

今考えてみても、こんな結果になろうとは想像もつかなかつた。吉森さんがやつていないことを事実をもつて知つていたので、裁判でも無罪になると確信していまして一方的な警告文、そしてデッチ上げの弾圧に対しては一切協力しないという立場でありました。

しかし、たつたビラ一枚で良く調査もしないで逮捕し、こんな事件になつてしまいまして前の晩になくなつているビラを吉森さんが破けるはずがありません。それを翌朝吉森さんが破つたと湯沢さんが証言したことは、でたらめでもはなはだしく真実の証言ではありません。このままではでたらめが認められてしまいますのでここに事実を申し上げます。

昭和四十六年六月三十日

住所 茨城県勝田市勝倉三四三三の一〇三六

氏名 大内弘隆

最高裁判所御中

陳述書

私は、昭和三十九年七月に臨時職員として教育委員会教育社会教育係に採用、昭和四十年二月一日に主事補として採用、同じ教育委員会教育課社会教育係に配属されると同時に勝田市役所職員組合に加入しました。

昭和四十一年十月十九日の晩に教育委員会、議会事務局との混成チームである各課対抗のソフトボール大会の残念会を五時三十分より勝田市公民館で行ないました。出席者は安慶造(前教育長)、川野道男、沢畑利勝、佐藤昭治、川島良二、小池正美、大内弘隆、船橋静、飛田昭征、渡辺孝男、安光江、助川基子、中島明子さんと私の計十四名でありました。

飲物はビール(二ダース)とジュースが十本ぐらいでした。七時三十分頃だいたいの人は帰えつていつて、まだビールが残つていたので、私、川島良二、小池正美、船橋静、大内弘隆、飛田昭征君の六人であつた。八時少し前に終り、後かたずけをし八時五・六分頃帰る用意をしている時に川崎さんが組合の用務で教育委員会に帰つて来たのと出会いました。タイムカードの前には小池君、船橋君、大内君、私しと四人いて、タイムカードの真上に十月二十一日のストは違法であるという警告文がはつてあつた。

職員組合の執行部より十月二十一日のストについての当局の回答の説明を聞いていたのでストは違法だなんてふざけていると皆んなで話し合つていたら、突然小池君が破つてしまいました。その後から来た川崎さんがどうせ破くならきれいにはがせと云つてセロテープをきれいにはがしました。

その後、皆んなで玄関より出て世間話をしながら歩いて行き駅前の喫茶店に入りコーヒーを飲み家へ帰りました。

以上が真実であり水戸地裁、東京高裁の判決は事実に反します。最高裁判所におかれましては充分に調査をされ真実な判決をしていただきたいと思います。

昭和四十六年  月  日

勝田市枝川一二四一市毛薫

最高裁判所御中

陳述書

私は昭和三十二年六月勝田市役所に入所し教育委員会に所属しておりましたが、勤務場所は勝田市の校舎を利用していた県立水戸商業高校定時制勝田分校で会計等一般事務の仕事をし、その後、昭和三十六年六月の異動で教育委員会庶務係として勤務し学校施設の国庫補助関係の仕事をしてまいりました。昭和四十一年十月十九日午後五時三十分より職員組合主催の各課対抗ソフトボール大会の残念会があり教育委員会と議会事務局のチームの一員であつた私も参加致しました。

残念会は熊田、船橋の二人が幹事で宿直室ではせまいので当時の管理人の湯沢さんが食事と風呂に入りに家に帰るので、その間を利用し管理人室で女子が買つて来た料理に男子はビール、女子はジュースを飲み雑談しながら行ないました。

参加者は教育長、課長等は七時三十分頃までに帰つてしまい、私達も八時近くにビール等も無くなつたので後片ずけをし帰る事になり管理人室を出ましたが、飛田君はその後も片ずけをしておつたらしく一番最後になつたようです。私も靴をはきかえに事務室に入りますと、委員長の川崎君がかばんをもつて出て来るのに出合い「遅いなあ終つてしまつたぞ」と声をかけ、靴をはきカードをもつて廊下に出ますと船橋、大内、川崎、小池等がタイムコーダの前で話をしており警告書が無くなつており、誰かが破いた様子でしたが誰が破いたかわかりませんでした。しかし、別に気にもしておりませんでしたので皆と一諸にタイムコーダに打刻し外に出ました。公民館を出た所で誰が云うともなくコーヒーでも飲もうと云うことになり、川崎君が組合に寄つて行くからと云うので駅前の茜と云う喫茶店で待合せコーヒーを飲み九時十八分のバスで市毛君と一諸に帰りました。

十月二十七日県に出張し帰つた所警察に出頭するよう課長から云われましたが、組合から「これは弾圧事件であり弾圧事件については協力しないと云う立場から出頭すべきでない」と指定され、私もそう思つたので出頭しませんでした。吉森君が逮捕された数日後に「実際に警告書を破つたのは誰か」と小池君に聞いた所「自分が破き、セロテープを川崎君がはがした」と教えられました。このように事実は我々教育委員会の職員が帰る時にすでに無くなつているので、次の朝吉森君が破いたのを見たと湯沢証人が云つているのは間違いでありますし破くにも警告書はすでに無かつたのが事実であります。

この度の高等裁判所の有罪の判決は事実に反しますし無実の吉森君を苦しめるだけでなく我々事実を知つておる者に対し裁判のふしんを高めるだけですので再度の審理を行ない公平な判決が出るよう要求します。

昭和四十六年六月三十日

茨城県勝田市枝川一三〇四ノ一

川島良二

最高裁判所御中

陳述書

川崎不二男

私は、昭和三十一年四月勝田市役所税務課に臨時職員として採用され、翌年二月に本採用となりました。

その後、企画室、財政課、再度税務課等に配属され昭和四十年四月に教育委員会事務局に出向を命ぜられ、昭和四十五年十一月組合専従休職を取るまで、当事務局に勤務しておりました。

その間、昭和三十七年十月勝田市職員組合に青年婦人部が結成されると同時に委員に選ばれ、組合運動を真剣に考えるようになりました。

昭和三十八年四月には、執行委員(給対部)となり、昭和三十九年には書記長となり、昭和四十一年七月から昭和四十五年八月まで執行委員長をしておりました。

昭和四十五年十月から自治労茨城県本部財政局長になり、同年十二月から専従休職をとり現在に至つています。

前述の通り、昭和四十一年十月当時は、勝田市職員組合の執行委員長をしておりました。

昭和四十一年十月二十日早朝、当時組合執行委員の吉森清司君が、十月二十一日の早朝一時間のストライキ中止を警告した。勝田市長名のビラを毀棄したとして、有罪になつた水戸地裁、東京高裁の判決に重大な誤りがあるので、ここに真実を申し述べます。

この警告ビラが十月十九日の夜にすでになくなつていた事については、一審、二審で申し述べた通りでありますが、その十九日夜の状態について、証言の一部訂正と若干の補足をします。

当夜(十九日)は、勤務時間が終了後、先に行なわれた職員組合主催の各課対抗ソフトボール大会に敗れた教委、議会混成チームの残念会が公民館管理人室で催されることになつていました。

私も、当チームの一員でありますから、出席する予定でいましたが目前に迫つた十月二十一日ストの準備のため昼休みに執行委員会を開催したところ、体制に若干の不安があつたので、午後は執行部全員が休暇を取つて対策を講ずることになりました。

その日の午後、市当局は前述の警告ビラを貼付したので、組合としては警告書の脇にスト宣言を貼る事や庁内にステッカーを貼る事などの対策を立て、その作業をしたので、午後八時近くまでかかつてしまいました。

午後八時ちよつと前、作業の一応の目安もついたので、私は前述の残念会に顔を出す事とカバンを取りに行くために他の役員より先に席を立ちました。

申し遅れましたが、公民館すなわち私達が勤務する教育委員会事務局は、市役所本庁舎からは五百米位離れた所に建つていました。

バイクに乗つて公民館に行き、正面玄関から入つてタイムレコーダの前付近に来ると残念会を終つた川島良二さん達数名が管理人室から出て来るところでした。「何だ、もう終つたのか」「遅いじやないか」などと話しながら、私は事務室の東側の扉から事務室に入り、川島さんは西側の扉から入つてきました。

私は、机の脇卓からカバンを取り、タイムカードを持つて、室の出入口の所に来ると、小池君の「何だこんなもの」というような声が聞こえ、私が廊下に出て行くと警告ビラを破いて両手で丸めて振返つた小池君に出合いました。

私は、タイムレコーダーを押しながら「どうせ破くならきれいにしなければ駄目じやないか」というようなことを言つて残つた紙片を取り除きました。たしか、壁に向つて右側の中間と下、左側の上と一番下のセロテープが残つていたような記憶があります。

その時の気持は、このようなビラ一枚で罪になるような気持は毛頭なく、市当局のやり方に対し、組合員はこれほど怒りに燃えているのかと思つていました。

したがつて、私は酔つている他の入達よりも私が醜く残つている紙片を掃除すべきだと思つて壁をきれいにしました。この場には、多分船橋静君、大内弘隆君、小池正美君、市毛薫君、川島良二さんがいたと思います。

それからお茶でも飲みに行こうと私から話かけ、勝田駅前の「茜」という喫茶店に行くことになりました。みんなは歩いて行きましたが、私はバイクなので、組合執行部の作業をしている市役所に行き、それから勝田駅へ着駅で送つて来ている「学習の友」という雑誌を受取りに行きました。

駅で荷物を受取り表に出ると当時議会事務局に勤務していた安光江さんと出合い二・三分の立話しをしました。

話の中で、安さんから「組合も毎日遅くまで大変ですね」とか「あんなビラ(警告書)貼られちやつて大変ですね」という話が出されたので、私は「公民館のビラはなくなつちやつているよ」と話しました。

そのうち、彼女の乗るバスが来たので別れてバイクに荷物を積み「茜」に行きました。「茜」には、川島さん、市毛君、小池君、大内君が来ていたので、私もその仲間に入りコーヒーを飲み三十分位で帰りました。

以上がビラがなくなつた時の経過であり、翌二十日早朝に吉森君が破いたのでは絶対にありません。

そうすると、一審・二審の中で、なぜ真実を証言しなかつたのかという疑問が起ることは当然と思いますが、私達職員組合は、これは明らかに職員組合に対する弾圧であり、労使間の問題に警察権は介入すべきでない、したがつて、弾圧事件には協力しないという立場から警察の呼出しには一切応じないということを確認しました。

なぜかというと、充分調査もせずに、むしろ故意に吉森君に焦点をあて、十月二十七日早朝自宅と職場(福祉事務所)突然捜索したり、十月二十一日のスト以前の十月はじめ頃から、勝田警察署の警備係長茂呂、山崎などが、私や田家、関口執行委員(当時)などに圧力をかけていたからです。

したがつて、私達の仲間である小池君をこのような弾圧者の前に晒すべきでないと思つたからです。

公判廷では、吉森君の無実を証明すればよいという観点から、前日にすでになかつた事についてのみ証言したのです。

水戸地裁および東京高裁の公判廷の中で、警察・検察側の重要な証人である湯沢鉄之介の証言については、どの証言部分を取つてもデタラメさが明らかになつたと思うし、酒類の窃盗をやるなど、社会的にも証人として適格性を欠くものであり、警察・検察側の証拠は完全に崩れ去つたと確信したと同時に、私自信も真実を知る者として、無罪以外の判決は考えられませんでした。また、私は、職員組合の執行委員長として吉森君を引かえに大切な組合員である小池君を被告として晒すことは出来なかつた。

しかしながら判決は、真実に目を覆い吉森君に有罪を判決したいま、小池君の希望もあつて組合の中からあえて真実を説き明かさざるを得なくなりました。

以上が事の真相であります。

勝田市職員組合の組合員、地域の真実を知る人たち、自治労の仲間の間には、一審、二審の判決を見て、裁判所に対する疑問を表明しています。

この誤つた判決が確定するならば、裁判史上に重大な汚点を残すことになると思いますので慎重に審理され、無罪を判決されるよう強く要望します。

昭和四十六年六月二十五日

茨城県勝田市大字馬渡二八四九―一

川崎不二男

最高裁判所

判事殿

陳述書

私は、昭和四十一年七月十一日に勝田市役所に勤務して、教育委員会の庶務係を担当し、学校の施設の管理などの仕事をしていました。又、私は勝田市役所に勤務すると同時に勝田市職員組合に加盟しました。

昭和四十一年十月十九日に職員組合主催の各課対抗ソフトボール大会の残念会が公民館の管理人室で午後五時半からありました。

私は教育委員会、議会事務局の混成チームの一員であつて、ソフトボール大会では総務部庶務課チームと対抗して敗けましたので右残念会に参加しました。残念会は予定通り管理人室で午後五時一寸過ぎから始まりました。私は他の参加者と一緒に教育委員会の部屋から管理人の部屋に行きました。

残念会に参加した人は私と市毛薫、船橋静、川島良二、安慶造(前教育長)、川野道男、飛田昭征、中島明子、助川基子、高瀬うめ、沢畑利勝、渡辺孝男、大内弘隆、安光江さん等の人でした。

残念会では船橋さんと飛田さんの二人が幹事で司会は飛田さんがし、教育長が挨拶などしてから宴会に入りました。宴会ではビール二ダース、ジュース等があり、料理は女の人が外から買つてきたキャベツやウインナー、串かつ、せんべい、ピーナツなどで参加者はこれらをつまみながらビールを飲み雑談しました。六時半から七時半頃までに、安、川野、助川、中島、高瀬、沢畑、渡辺、安(光江)さんらが汽車の関係や、酒が飲めないなどの関係から帰つてしまい、その他の者が残り、残つたビールを飲んで八時頃帰る事になりました。管理人室の「片づけ」は飛田さんにまかせて皆は先に部屋を出た訳です。

その間、管理人室には湯沢は来ていません。私は、川島、船橋、市毛、大内さんらと一緒に部屋を出て正面の玄関に行く廊下を歩いて教育委員会の部屋の西側の入口から部屋にあるタイムカードを取つて廊下の反対側、つまり東側にあるタイムレコーダーに打刻しました。一緒にいた人も大内さんのみが議会事務局の人なので、この人を除いた他の人は私と同じ教育委員会の職員ですから同じように打刻した訳です。

タイムカードによると私の打刻時は午後八時七分になつています。

当時タイムレコーダーのほぼ真上に市長名の警告書なるものが貼付してあるのを見て、酒を飲んでいたので頭に来て思わず破つてしまつた訳です。

破り方は、警告書で「ストを中止せよ」と書いてあることからカッーとなつて破つたので、現在はあまり良く記憶していませんが、右手で警告書の上部の真中位のところに指を引き掛けて一気に下左におろして破いたように思います。

タイムカードに打刻してから警告書を破つたか、破つてから打刻したのか、この点の前後についても現在は解りません。

当時、私はグランドコートを着ていたので、まるめた警告書はそのポケットに入れたと記憶しています。

警告書の全部が完全にはがれた訳ではなく、右の方の一部とセロテープなどが壁に残つていたように思います。

丁度、この時、私のうしろから川崎さんの声がきこえ、どうせ取るならきれいに取らなければいけないだろうと云い乍ら、川崎さんがきれいに残つた紙やセロテープを取つてしまつたようです。

その頃、私たちは皆と話し乍ら玄関の方へ行き、川崎さんが来るのを待つていたので、どのようにきれいにしたのか知りません。川崎さんを含めた皆んなで公民館を出たところで、お茶をのみにゆこうと云う事になり、駅前の「茜」と云う喫茶店に入り、コーヒー等を飲んで解散した訳です。

私は下宿に九時一寸すぎ頃に帰り、酔つていたのでそのまま寝てしまい、翌日ポケットにあつた警告書に気付き部屋の屑カゴに捨ててしまいました。

私は、当時二十一才でビール二本位のめば酔つてしまいましたが、残念会では2.3本位のんだように記憶しています。

一〇月二〇日に市毛君から警告書をどうしたと云われたので、前記のとおり屑かごに捨てたと云つたところ、何とかしろと云つたので、その日、役所から帰つてから風呂でもやしてしまいました。

この様に問題になつている警告書を破つたのは、吉森さんでなく、私であると云う事は間違いありません。

警察、検察庁で吉森さんを被告人として起訴してしまつた事、そして右起訴が前記のように事実に反する全くデッチ上げ事件であるので、必ず無罪になると思つていたので現在まで黙つていた訳です。

又、この事に関して、私が警察に出頭して事実を述べようと思い、組合に相談したところ、組合としては本事件は組合弾圧を狙つた事件で、組合は弾圧事件には協力しない方針だから、警察に出頭する必要はないと云われた事と私自身もその通りだと思つたので黙つていました。

私は東京高等裁判所の判決をきいて、判決があまりにも白々しく事実に反し、このまま放置しておけば無実の人が有罪になると考え、本陳述書を作成した訳です。

水戸地方裁判所と東京高等裁判所の判決は、間違つています。再度の審理を要求します。

昭和四十六年六月三十日

茨城県勝田市馬渡三四二番地

小池正美

最高裁判所御中

以上の各陳述書で明らかなとおり警告書は一九日になくなつていたことが明々白々となつた。そしてこのことはとりも直さず湯沢の偽証が明らかになり、併せて第一審、原審の裁判所の採証方法が如何に不当なのかを示し、且つ弁護人の当初よりの主張の正しさを裏付したものであると云う外はない。

四、真相と弁護人、被告人並に川崎証人の証言等について

以上のことで、本件警告文が一九日の夜八時すぎには剥されなくなつていたことが明らかになつた。したがつて、翌二〇日の午前に警告文があつたと証言した湯沢証言は全赤な嘘であることが之亦明らかになつた訳である。

ところでこの点につき、弁護人、被告人更らには警告文を剥した小池正美君、又結果的には一部の事実を黙していた川崎証人らの証人の証言について、何故早くこの事実を法廷等で明らにしなかつたのか、その批難をするとすれば、これは全くの見当違といわねばならない。

何故ならば本件起訴は、検察官が一方的に被告人が犯行したとして捜査し、その結果自信を持つて起訴し、偽証犯人であり(後には窃盗被疑者)である湯沢の嘘の供述を措信して公判を進行してきたからである。弁護人も被告人も検察官が本件を起訴した当時から、小池君が警告文を剥したことを知つていたし、それだからこそ冒頭陳述でも一九日の夜には警告文はなかつたことを明らかにしている。したがつて弁護人らは、検察官の起訴事実について法廷で徹底的に争いさえすれば良い訳であり、障々小池君がやつたことまで明らかにする必要はない。そして具体的には、犯行を目撃したと称する湯沢証人の証言は、目撃してないことを証言するのであるから、徹底的に追求しそれが措信すべきでないこと、結局被告人は無罪であることを明らかにすべきであり又そうしてきた。要するに弁護人・被告人らは本件を無罪にする為に又は真実を明らかにすべきために小池君の事を明らかにすべき、法的道義的義務は全くないばかりか、むしろ法的にも道義的にそうすべきでないのである。

又小川君は何故自分がやつたなら、その旨をあかさないかの批難については、前記小川君の陳述書の通りで、追求すべきでない。

次に川崎証人らの各証言の一部が矛盾していることについては、本件が単なる公文書毀棄事件としてのみ評価すべきでなく、その背景となる当時の組合の一〇月二一日の争議行為をめぐる次のような情勢をも考えることが必要である。当時当局は警察と一体となつて組合を敵視し、組合を弾圧しようとしていたのである。

すなわち組合は一〇月二一日の争議行為を前にしての団交で何とか円満解決を求めていたが、当局は満足に団交せず、市長は一度も団交に出席しなかつた。一方警察は当局のこの態度と相呼応してか、一〇月二一日前から市長室に又は市庁舎に警察官を出入させたり、又は組合の執行委員を料理屋に呼び組合の情報を強要していたことは既に証拠上明らかである。このような背景で警告書が紛失したことを理由に当時の活発な執行委員であつた被告人を強制捜査の上起訴したものが本件である。これら一連の事実から組合が本件起訴は組合の団結と破壊する目的でなされたものと考え且つ位置づけたことは当然である。だからこそ小池君のことも個人の問題でなく、組合と当局、組合と警察の問題であると位置づけたことは、全く正しいことと云わねばならない。そこで組合の団結を守ること、当局の意図を阻止する為に川崎君らが一部の事実を証言しなかつたことは当然であり正しいことである。

本件において最も批難さるべき者は、ないことを、あるように嘘を証言した湯沢であり、又同人をあやつていた者がいるとすればその者こそ最も大きく批難さるべきものである。

又事件につき起訴された当時から、市の職員の大部分は被告人が犯人であることに疑問を持ち、むしろ被告人ではないこと、したがつて裁判は無罪であることを礁心しているのである。

いづれにしても原判決は破棄をまぬがれない、そして原審に差戻し更らに証拠調べをし、事実を明らかにしなければ法の権威は元より裁判の威信は全く失われ正義に反すること明らかである。

控訴趣意書

被告人 吉森清司

本事件は「ストライキに参加することは公務員として違法であるから参加するな」という趣旨のビラを私が破つた。だから公文書毀棄罪に該当するとして市当局、警察が問題にした事件です。

しかし、市当局と警察のねらいは、勝田市職を弾圧することにありました。

公務員共斗がはじめて突入した昭和四一年の十・二一統一ストを戦斗的に斗つた勝田市職に対する報復措置であつたのです。

一審、二審における私を有罪とする唯一の証人湯沢鉄之介の支離滅裂な証言、取り調べに当つた刑事のウソの証言を有罪判決を下すに当つての有力な材料にするなど、全く身に覚えのない私にとつて絶対に承服出来ないものです。

このことは、事件発生後の警察、市当局の具体な行動を検討するだけで明らかになるものです。

市の管理する建物の中に起つた事件であるにも拘らず、市当局の調査より警備警察の捜査の方が早いのは何故か。又、市長の告発(告訴)が警察の捜査より遅れて行われたという事実、更にいえば、高等裁判所は湯沢証人の老令なるが故に「ビラ」を破つた状祝を目撃していても、その態様をよく覚えていなくて当然、その前夜の状況もずつと以前のことであるから忘れて当然であるといつています。

そして、破つたものを見たという証言が変つていないから信用出来るとしています。

しかし、日常、市民生活を続ける中で、そのような乱暴な言い方で一人の人間の一生が左右されるとしたらどうでしようか。

あれは、何々の犯罪をおかしたと指さされるだけで、その人の一生が破滅することと全くかわりのないことになるのではないでしようか。私は、このような裁判の結果については、全く承服出来ません。

再度、公平な審理をされるよう強く要請します。

以上

検察官提出の「答弁の補充書」

検察官は、さきの答弁書において、本件訴訟記録および原裁判所において取り調べた証拠に基づき、なお、右答弁書を提出した時点における水戸地方検察庁検察官の小池正美に対する嫌疑の有無に関する捜査の状況を考慮して、原判決には弁護人らの非難するような事実誤認は認められない旨の見解を述べたのであるが、右小池正美に対する被疑事件のその後の捜査の結果にかんがみ、あらためて意見を述べる。

一、小池正美に対する公文書毀棄被疑事件のその後の捜査の結果は次のとおりである。

1 市毛薫、大内弘隆、船橋静および川崎不二男は、刑事訴訟法二二六条に基づく証人尋問に際し、それぞれ弁護人の上告趣意書中同人ら名義の陳述書と表示してある部分に記載されている内容と同趣旨の供述をし、なお、大内弘隆、船橋静および川崎不二男は、本件被告事件の公判で、小池正美の犯行を現認した事実を秘し、これと異なる証言をしたことを認め、その理由につき大内、船橋の両名は、小池をかばうためであつた旨述べた。

2 小池正美と同時期に勝田市役所に就職したことから同人と交際している大津晴也は、検察官に対し、大要次のとおり供述した。

(一) 本件被告事件が一審に係属中のころ、水戸市内の飲食店で小池正美から「吉森事件の警告文は、一〇月一九日夜、自分が酔つた勢いで破いたのだが、吉森がやつたものとして問題になつたので悩んでいる」と打ちあけられ、それなら真犯人として名乗り出るのが当然だと思い、小池とともに吉森方を訪ねて話したが、吉森は「自分は、やらないということで闘つているのだから、出てもらう必要はない」と云い、それが組合や弁護団の方針だというので小池が名乗り出る話はやめになり、自分も手を引いた。

(二) 今年の夏、小池は「市役所に辞表を出し、吉森事件について名乗り出ることになり最高裁に出す陳述書を書いた」と云うので、自分は小池の立場から考えて、事の発端は組合がストを計画したためで、吉森事件も組合側の闘争戦術がまずくて有罪になつたのだから、今になつて方針を変更して小池を出すとすれば組合が補償を考慮するのが筋だと思つて組合の幹部に交渉してやつたが結論を得なかつた。

(三) 検察庁が、今回小池に対する容疑で捜査をはじめてから、組合は、小池が逮捕されないという見通しに立ち、任意出頭の要求は一切拒否する方針を打ち出したが、自分は小池逮捕の可能性もあるとみて、むしろ出頭して、ありのままに事実を述べたうえで、検察側が適正な措置を執るように要望した方がよいと思い小池を説得した。しかし、小池は、組合の方針を無視できず出頭しないのであろう。自分が出頭するについては、小池にも連絡しようと思つたが、小池は九州で開催される自治労の大会に出たということで不在であつた。

2 小池正美については、逮捕状により逮捕して取り調べたうえ釈放し、数日後、任意に出頭したので、さらに取り調べたのであるが、検察官に対し、弁護人の上告趣意書中の小池正美名義の陳述書と表示してある部分に記載されてある内容と同趣旨の昭和四一年一〇月一九日夜、勝田市長名義の本件文書を毀棄した経緯を述べたうえ、大要次のとおり付加して供述した。

(一) 吉森が逮捕されて間もないところの夜、組合執行部の川崎らが訪ねて来て「吉森は逮捕されたが裁判で白になるから、警察が来てもお前は何も云うな」と云われ、自分としても、吉森は黒にならないだろうと思い、組合側の方針に従い名乗り出ないことにしたが、勾留理由開示を傍聴したとき、吉森の奥さんの姿を見て苦しい思いがした。

(二) 吉森事件の一審裁判がはじまると勝田市の旅館で弁護団との打ち合わせの会合があり、一〇月一九日夜残念会が終つて帰るときに警告文はなくなつていたという立証をするというので、そのような内容の書面に署名したことがある。

(三) 吉森の裁判が進むうち、真相を隠していることが道義的に苦しいので深酒で気持をまぎらすことが多くて胃潰瘍になり昭和四四年三月ころから八月ころまで入院した。そのころ友人の大津晴也らに真相を打ちあけて相談し、大津とともに吉森方を訪ねて、真犯人として名乗り出たいと申したが、吉森から「自分を起訴したのは組織に対する弾圧で、自分は弾圧と闘つているのだから君が出る必要はなく、出てもらつては困る」と云われ、また、一審判決の後、組合の川崎、吉森らに「吉森さんは黒になつたのだから職を奪われるかも知れないし、自分は名乗つて出たい」と申し出たが、組合側から「まだ高裁もあるし、吉森は引き続き自治労で働らくこともできるから出る必要はない」と云つて反対された。

(四) 二審判決が近いころになつて、組合の武藤書記長から「組合は、高裁での最悪の事態も考えているが、お前はどう思つているか」と聞かれ、時効の話なども持ち出されたので、組合側も、今となつては、自分を出すつもりなのかと思い「今まで、組合の方針に従つて名乗り出ないでいたのだが、自分は出るべきだと思う、出るなら出るとはつきり結論を決めてくれ」と頼んだが「まだ判決前だから決められない」ということであつた。

(五) 二審判決の後、組合側の指示で、残念会の夜残つていた者が、勝田市の旅館に集められ、弁護士と打ち合わせをしたが、その際、自分から警告文を破いた話を聞いた弁護士は「ああ某君は君か」「今まで、某君と呼んでいた」と云つて陳述書の草稿を書いてくれたので、自分は、それを清書して組合側にわたした。

(六) 八月上旬ころ補償の問題について、大津が組合側に交渉してくれたが結論は出なかつた。補償というのは、自分が真犯人として、当局に名乗り出ようとしていたのを組合側の闘争戦術のために押えられて来たため受けた精神的苦痛に対するもので、真犯人でない者が真犯人として身代りに出ることの補償ではない。

(七) 今回の検察庁の呼出しに対して、大津は、逮捕の可能性もあるから出頭すべきだと云い、自分としては、逮捕の点を別にしても出頭するつもりで逃げる気持は全くなかつたのだが、組合が出頭することに反対であつたため組合の方針に従つたのである。

右被疑事件の処理。

小池正美に対する右公文書毀棄被疑事件は、昭和四六年一〇月一五日水戸地方検察庁検察官において、前述の捜査の結果に基づき嫌疑を認めたうえ諸般の情状を考慮して起訴猶予処分に付した。

このようなわけで、原判決の容認した第一審判決において、昭和四一年一〇月二〇日朝、被告人吉森が毀棄したものとされている勝田市長名義の「職員の争議行為の防止について」と題する文書は、同月一九日夜、小池正美が破棄している疑いがあり、それは判決に影響を及ぼすべき重大な事実の誤認があることを疑うに足りる顕著な事由があるといえるので、本件被告人に対し刑責を認めた第一審判決およびこれを支持した原判決を破棄しなければ著しく正義に反する場合にあたるものと思料する。

以上の次第であるから、本件第一審判決および原判決を破棄したうえ、あらためて相当の裁判を賜わりたい。

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